女性(じょせい)坑夫の生活と坑内の唄

                                                  松本さん(81歳) 
<坑内での仕事の様子>

明治31年の生まれです。数えの14でしたね、2月頃はじめて坑内に入ったとです。麻生の上三緒坑区の下請けの小山で大谷にあったヤマでした。

 そこにお母さんが后山(あとやま)で坑内にいきよりましたけね。お母さんについて入ってね。坑内に入ったはな(はじめ)は数えで14になったばかりでしょうが、もう恐ろしいばっかりでねえ。お母さんにくっついてそうつきよった(あるきまわっていた)です。お母さんが百斤のスラ引っ張るでっしょ、わたしゃはじめてで、まだ小さいもんやけ、半分もないくらい、50斤もなかったと思います。なれるまでしばらくそうしとりました。その冬にはほとんど百斤引きよったです。そのかわり、骨おりよりましたけどねぇ。お母さんが上手でしたきねぇ。
 スラ引きは。もう1等やった。それいついて習うちょるきね、15,6はもう盛んにしよりましたきね。何もえずい(こわい)ものはないごとなりましたき。皆がいいござしたが、「あんた、お母さんから習ったき、仕事がお母さんににちょる。」ちゅうてね。私もお母さんも引きはじめたら足はくるわん、力もくるわん。切端(きりは)で先山さんにスラにいれ てもろうたしこの量(入れてもらっただけの量)は、丘にあがるまでくるわんでした。ひとつもゆすりこまんですたいね。下手な人はこぼれたり、中に沈み込んだりで、あがれば勘定さん(数を数える人)からおごられよったりしよりましたよ。そやから、どっこの先山さんについてもいよいよやっぱほめられてきました。仕事の無いようなことはなかったですよ。次から次に来てくれ来てくれゆうてですね。

石炭を掘っているところから、地上まで引っぱって上がる仕事が、女性の仕事だったんですね。そして、入れてもらってから地上まで石炭をこぼさずに運ぶことがたいへんだったことがわかりますね。

<坑内唄とは>

17,8になったらいよいよえずいものはなかったですね。自信もついたし力もついた。その頃スラ引きの横綱までいったとです。(笑)
 大正11,2年ぐらいまで坑内に入ったでしょうや。やっぱ仕事をしよるときはね、だまってするよりも唄を歌うてしよると、きつさ(つらさ)を忘れるですよ。たいがい、好いた人は歌いよったですね。炭砿の唄だけじゃない、時の流行歌でんなんでん。唄はだいたい好きですけんね。坑口に入ったらもう唄、よう歌うてしょったですよ。なんか気にいらんことやら、うれしいことがあれば歌ってきよったですよ。ひとつ歌いましょうかね。

  他人(ひと)のさまとら我(わが)さまとられ   こーら
  恨(うら)められたりうらめたり   ごっとん

※つらさを忘れるために、歌い始めたというのが炭坑唄でしょうか。でも、みんなで声をあわせて坑内で歌うって気持ちがいいものですね。一人じゃないっていうきもするし、歌えばたのしくなったのかな。

<炭坑の中の子そだて>

若い頃は声も出たし、坑内で歌ってごらんなさいよ。そらもう響きわたる。長男が腹に入っとった時にゃ生まれる何日か前まで坑内に入ったとですバイ。低いところはお腹をこするっちゃけん。そらもう、ひどいことしよったですよ。産後も10日でしたね。10日すぎたら坑内でんどこでんいきよったですよ。ようあげん体がもってきよったと思う。今考えよったら恐ろしいごとある。9人、子どもを育てましたもんね。今の女の人は極楽ですよ、ほんと。

※子どもが生まれるときも、炭坑の中で働いていたんだね。そして、生まれてから10日たつとすぐにまた、働いていたんだね。そんな中でも、9人も子どもをそだてあげたおばあちゃんのことを、みんなはどう思う?

 

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