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鉱区(こうく)の所在
宮田町、小竹町、鞍手町
※鉱区・・・石炭を掘っている場所のことです。
鉱区(こうく)及び埋蔵量(まいぞうりょう)
東西8キロメーター 、南北4キロメータに及ぶ・・・(笠松小学校の校区の2倍くらいかな?)
| 鉱区面積(こうくめんせき) | 石炭をほった面積(めんせき) |
(つぼ) |
野球場が1250こ入る大きさ。 | ||
| 埋蔵炭量(まいぞうたんりょう) | 石炭が埋(う)まっている量 |
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10トントラックが 1090万台 | ||
| 可採埋蔵炭量(かさいまいぞうたんりょう) | 実際に掘(ほ)り出すことができる石炭の量 |
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10トントラックが 990万台 | ||
| 実収炭量(じっしゅうまいぞうたんりょう) | 実際に掘り出した石炭の量 |
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10トントラックが 660万台 |
(昭和31年大之浦炭鉱案内より)
沿革(えんかく)・・・歴史のこと
1885年11月3日、当時、鞍手郡上大隈村字代の浦に大之浦炭鉱(おおのうらたんこう)はひらかれた。
それから1世紀(100年間)にわたる貝島炭鉱(かいじまたんこう)の歴史がはじまる。その当時は日本の社会全体が石炭をエネルギーとして利用しており、日本の石炭業界のトップにたって、日本の社会の発展(はってん)にはたした役わりはとても大きい。貝島炭坑がはじまってから1億トン(車1台が1トンだから・・・)の石炭が掘り出されたことはおどろきである。
たくさんの社会のへんかをへて、1953年に総工費(そうこうひ)20億円あまりをつかって大之浦東部にある深部(地中深くの)採掘のためアジア一番の竪抗ビルをもつ新菅牟田鉱(しんすがむたこう)を開発した。」
そして1960年から、中央露天掘り(今の宮田町駅裏の大きな池)等における優良原料炭を産業界に提供しつづけた。一番、会社が栄えた頃には、働く人は1万人をこえ、家族を含め3万をこす数だった。
しかし、日本のエネルギー政策は石油(せきゆ)の登場で、次々に会社の合理化(縮小)を求めてきた。1973年11月に大之浦の閉山によって坑内掘(こうないぼり)の火を消し、1976年8月ついにながきしごとを終わる。
このように見てくると1885年から1976年まで91年間の長い年月、日本の工業をささえ続けて <地面の下の様子です>
いたことがわかる。
※露天掘りの後(ちょっと画像が荒いですが。)

これは、今の宮田駅うらの大きな露天掘りの後です。
今では、大きな丸い池になっていて、当時のおもかげをのこしています。