| 貝島炭砿の足跡 |
明治18年4月貝島太助は、鞍手郡上大隈村代の浦所在の石炭鉱区4万3千坪の借地を出願し、採掘許可を得て、これを大之浦炭砿と称せり・・・・昭和29年に編纂された貝島会社年表草案にかかれているが、現在宮田町石炭記念館所在地の至近距離に貝島炭砿は誕生した。以来91年波乱に満ちた貝島の歴史はその幕を開いたのである。
貝島炭砿としての出炭量は約1億トンにも及び」、従業員の言葉として広く語り継がれた三池、夕張、大之浦といわれた誇らしさは、今もなお消えていない。大正の後半、生産170万トン、従業員数1万3千余、家族を含めると4万余の地域社会を構成し、宮田町の中核として存在したことは何人も否定しないであろう。
昭和48年筑豊石炭産業坑内掘最後の火を貝島が消し、同51年8月閉山、精算会社の発足。貝島の隆盛時代を知る人にとって、想像だにしえない現実が今眼前にある。昭和24年から始まった深層部開発の大事業のため、東洋一を誇った地上53メートル、地下470メートルの巨大な竪抗は、その姿を遺してはいるが、昔日の活気あふれる様相はもちろん見ることはできない。宮田町の全域に広がった坑外諸施設も新しい胎動の中に埋没、6千を超えた炭住も朽ち倒壊し3,500戸を割り、数年後には貝島炭砿のすべてが過去の限界に消えて行くであろう。いま、90年の足跡のあらましを記し、往時を偲ぶよしがとしたい。
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